鮭延寺(古河市)概要: 正源山鮭延寺は茨城県古河市大堤に境内を構えている曹洞宗の寺院です。鮭延寺の創建は正保3年(1646)、鮭延秀綱が死去すると家臣達が遺徳を偲び、古河藩2代藩主土井利隆に懇願し慶安元年(1648)、永平寺(福井県永平寺町)24世勅特賜鉄面禅師を招いて開山したのが始まりと伝えられています。
寺号は秀綱の姓、山号の正源山は鮭延氏の菩提寺で山形県真室川町に境内を構えている三弘山正源寺に起因していると思われます。古河藩主土井家の庇護により永平寺の直末寺、10万石の格式を得ており寺運が隆盛しています。
鮭延秀綱は元々横手城(秋田県横手市)の城主小野寺氏の家臣でしたが山形城(山形県山形市)の城主最上義光に敗れ従属し最上家の有力家臣になった人物です。慶長5年(1600)、奥州の関ヶ原とも呼ばれる長谷堂城攻防戦(出羽合戦)で上杉家の執政である直江兼続の猛攻から長谷堂城を死守した事で一家臣ながら鮭延城1万1千5百石を有するまでなりましが元和8年(1622)主家である最上家が御家騒動の為改易となり秀綱も連座して佐倉藩(千葉県佐倉市)土井家預かりの身となります。
その後、土井家から預かりの身としては異例の5千石が与えられましたが全て家臣達に分け与え、自らは家臣の屋敷を転々としていたそうです(美談である一方で「乞食大名」と揶揄された)。寛永10年(1633)、土井家が古河藩に転封になると随行し正保3年(1646)、古河の地で死去しています。
鮭延寺境内には古河藩士で陽明学者の熊沢蕃山の墓碑があります。熊沢蕃山は京都に生まれ、徳川頼房に仕えていた熊沢守久の養子となると学問に精を出し陽明学者として確立し岡山藩に3千石を有するになりました。慶安4年(1651)には庶民教育の必要性を説き、この思想が寛文10年(1670)に開校した日本最初の庶民学校「閑谷学校」の祖となっています。藩政改革も積極的に行った為、守旧派の家臣とはそりが合わず、思想的にも朱子学者とは対立関係にあった為、軋轢を生じ岡山藩から離れる事になりました。
後年、古河藩に召かれましたが幕府に対し批判的な思想を持っていた為、古河城に禁固され元禄4年(1691)に死去し当時の藩主松平忠之により当寺に埋葬されました。享年73歳。現在の墓碑は文化年間(1804〜1818年)に再建されたもので昭和36年(1961)に茨城県指定史跡に指定されています。山号:正源山。宗派:曹洞宗。
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