常陸国総社宮

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概要・歴史・観光・見所

常陸国総社宮(石岡市)概要: 常陸国総社宮は茨城県石岡市総社2丁目に鎮座している神社です。常陸国総社宮の創建は奈良時代の天平年間(729〜749年)、聖武天皇の勅命によって勧請されたのが始まりとされます(総社制度は平安時代末期である事から創建当初から総社ではなかったと思われます)。

【 日本武尊の伝承 】-常陸国総社宮の境内には日本武尊の伝承が残されており、それによると、東国平定を完遂した尊は当地を宿営地とし、翌日新治に向かったとされ、拝殿脇に安置されている、平な大石は尊が腰を下ろし訪れ眼下に広がる景色を眺めたと伝えられている事から「腰掛石」と呼ばれ現在は木柵が張られ神聖視されています。常陸國總社宮が創建する際は、当地が尊の旧跡だった事が理由の一つとされ、当初は神石(腰掛石)付近に勧請されたとも云われています。

当然、この伝承を明確にする資料は残されていないものの、奈良時代に編纂された古事記と日本書紀で、日本武尊が酒折宮(山梨県甲府市酒折)で詠った「新冶 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」の歌が記載されている事から、これが事実とすると常陸国府が置かれた石岡の地も通過した可能性が高くなります。ただし、常陸国が成立したのは大化2年(646)の事で、その後、国府や国分寺が整備された事を考慮しなければなりません。

そもそも、日本武尊が生きていた時代が明確ではなく、良く見かける景行天皇40年は諸説あり西暦110年や西暦290年などの説があるようです。何れにしても2〜3世紀は邪馬台国の卑弥呼の時代でもあり、弥生時代末期から古墳時代に移行する過渡期だった事が判ります。古事記や日本書紀、常陸風土記が記されたのは400年から500年後の事で、どの程度正確なものだったかは不詳で、常陸風土記では日本武尊が倭武天皇や倭建天皇と表記されているものの、古事記や日本書紀では日本武尊は天皇になる前に死没している為、天皇にはなっておらず、表記が全く異なってます。天皇という尊称が天皇制が確立する以前の実力者を現わしている事ならば、日本武尊は東海地方から北関東までを版図した巨大な支配者という事かも知れません。

因みに奈良時代の養老年間(717〜723年)に編纂された推定される常陸国風土記には日本武尊の事と思われる「倭武の天皇」が数回登場し、倭武天皇が橘皇后と一緒に獲物を捕った事や、袖を水に浸してしまった事から「ひたち=常陸」の地名の由来になった事などが記載されています。

常陸国風土記は「古老相伝の旧聞」をまとめたものである事から真偽の程は判りませんが、少なくとも奈良時代には日本武尊の伝説が確立していた事になり興味深いものがあります(「古事記」や「日本書紀」では日本武尊が天皇に即位した事は記載されていな事から別人説もあります)。時代が少し下がった応神天皇(日本武尊の孫)の代には天津彦根命の孫とされる筑紫刀禰が茨城国造に就任し、石岡市にある舟塚山古墳(関東第2位の規模)はその墳墓とされます。

【 常陸国総社宮と国府 】-常陸国総社宮は常陸国衙(国府)に隣接している事から国府の宮などと呼ばれていましたが平安時代の延喜年間(901〜923年)に伊弉諾尊・素盞嗚尊・瓊々忤尊・大国主尊・大宮比賣尊・布留大神の6柱を勧請合祀すると六所の宮となりその後、総社に改称しています。常陸国府との関係が深く国の祭事が行われていたことから常陸国一ノ宮鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)と同格とされ、常陸国の中心的な神社として朝廷や鎌倉幕府からも奉幣がありました。

常陸国総社宮は奈良時代に創建されたとの由緒を持つ歴史ある神社ですが、客観的な資料はありません。しかし、常陸国の国府と境内が隣接する事から国府の祭祀に深く結びついていた神社である事は疑いのないところで、常陸国は、上記の「常陸国風土記」によると大化元年(645)の大化の改新の直後に立国したとされ、国衙の発掘調査では、最も古い建物跡は7世紀末頃と推定される為、常陸国総社宮もその頃に勧請された可能性があります。

当然確証がある訳ではありませんが、当時の国府は政教同一で国の祭祀も立派な業務だった事から何らかな司祭施設は必ず必要だったようで、一般的にはその国の一番格式の高い一宮が祭祀の中心となりますが、常陸国一宮である鹿島神宮は国府から遠く離れていた為、便宜上国府に隣接して総社を設ける例も見られ常陸国総社宮もそうした理由から創建されたと思われます。

又、律令制度が確立すると、国司はその国の安寧を図る為、国内(当社の場合は常陸国内)の主要な神社(延喜式内社など)を巡拝する必要性があり、それを全て行う事は大変労力がいる事から、総社にそれら全ての祭神の分霊を勧請させ、社号の通り「総社」、「総宮」となりました。そういう意味では総社が確立したのは平安時代後期以降である事から、常陸国総社宮はその頃に創建したとも考えられます。

【 常陸国総社宮と領主 】-常陸国総社宮は広く常陸国内の人々から崇敬され、特に中世長く領主となった大掾氏が篤く庇護し、居城となった府中城の鎮守社として現在地に遷座しました。江戸城主の太田氏も帰依し永亨年間(1429〜1441年)には東国に出兵する太田道灌が常陸国総社宮で戦勝祈願を行い「曙の 露は置くかも 神垣や 榊葉白き 夏の夜の月」の短歌を奉納し、寛文8年(1668)には後裔である太田資宗が軍配を寄進しています。戦国時代末期に佐竹義宣に攻められ府中城が落城し大掾氏が没落すると、常陸国総社宮の境内が荒廃しましたが、その後は佐竹義宣が庇護し総長45.1cm、最大幅18.0cm、柄幅2.2cmの軍配が寄進されています。

江戸時代に入ると歴代府中藩(藩庁:府中陣屋)の藩主から崇敬庇護され寛永4年(1627)には一時避難していた石岡市内・谷向から現在地に遷座し、皆川隆庸が社殿を再建、天和3年(1683)には常陸国新治郡5千石の領主松平信定によって社殿が改修、幕府からは社領25石が安堵されました。常陸国総社宮は古くから神仏習合し、神宮寺が祭祀を司ってきましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され、明治4年(1871)に郷社に明治31年(1898)に県社に列しています。

現在の常陸国総社宮本殿は天和3年(1683)に再建された三間社流造、銅瓦葺きの建物で石岡市における江戸時代前期の神社建築の形式を伝えるものとして平成17年(2005)に石岡市指定有形文化財に指定されています。例祭である「常陸國總社宮例大祭(石岡のおまつり)」は関東三大祭りの1つに数えられています。随神門(神社山門)は寛永4年(1627)頃に再建されたもので、切妻、茅葺、三間一戸、八脚単層門、延宝8年(1680)大仏師寂幻作の随神像(右大臣、左大臣)が安置、本殿と共に常陸国総社宮最古の建物として貴重とされます。祭神:伊弉諾尊、大国主尊、素戔嗚尊、瓊々杵尊、大宮比売尊、布留大神。

常陸国総社宮の文化財
・ 扁額三十六歌仙絵(14面)-文亀3年-成田小次郎平益親作-茨城県指定文化財
・ 常陸総社文書(50通)-治承3年〜天保-絹表紙折本式書帖-茨城県指定
・ 漆皮軍配−室町時代−鞣革製黒漆、伝:太田道灌奉納−茨城県指定文化財
・ 漆皮軍配−安土桃山時代−鞣革製金漆、伝:佐竹義宣奉納−茨城県指定文化財
・ 土橋町の獅子頭−宝暦年間−例大祭で奉納−茨城県指定有形民俗文化財
・ 常陸国総社宮本殿−天和3年−三間社流造、銅瓦葺−石岡市指定文化財
・ 随身像−延宝8年(1680)大仏師寂幻作−石岡市指定文化財

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
公式ホームページ
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板(由緒)-常陸国総社宮
・ 現地案内板-石岡市教育委員会

常陸国総社宮:写真

常陸国総社宮境内正面に設けられた大鳥居と石燈篭
境内正面に設けられた大鳥居と石燈篭
常陸国総社宮参道に設けられた歴史を感じる茅葺屋根の神門
参道にある歴史を感じる茅葺屋根の神門
常陸国総社宮境内に設けられている神楽殿と拝殿
境内に設けられている神楽殿と拝殿
常陸国総社宮洗練された拝殿の意匠と酒樽、その前の石造狛犬
洗練された拝殿の意匠と酒樽と石造狛犬
常陸国総社宮屋根しか見えない本殿
屋根しか見えない本殿


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